前編を書いてから間が空いてしましたが、後編を書いていこうと思います。
また、長くなってしまうかとは思いますが、よろしけれがご覧ください。
年越しから緩和病棟へ入院
年末年始というのは、一般的にはこたつに入って、紅白を見て、おせちを食べて、、、
こんな感じでしょうか。
ですが、実家がお寺の場合は違います。
むしろ、年末年始の方が忙しいのです。
よく厄年の時に護摩札やお守りを祈祷してもらうことってありますよね。
お坊さんが火を焚いて、なむなむ。。。
それを実家では、お正月には毎年行っています。
まだ、この準備の段階の時には痩せてはいましたが母は元気そうでした。
(周りに辛さを見せないように気を張っていたとも言えますが、)
なので、100以上の護摩札の準備は全て母がこなしていました。
コロナで夏休みやこねりが生まれた時に帰ってこられなかった妹が年末なんとか帰ってくることができ、1月2日に行われる新年護摩法要は行うことできました。
当日はお手伝いでねりこ達も寺にきていたのですが、法要が終わった後にきてくれたお客さんたちの前で少し話をしました。
毎年ならば、この祈祷でみなさんの一年も幸せになることでしょう的なことを言っていたのですが、この年はちょっと違いました。
「辛いこと、大変なこと、そんな時こそ願い祈り考える。そうすると気持ちが救われると思います。」
表情も、いつもよりも鬼気迫るものがありました。
この言葉は母も、母自身に向かって言ったのだなと、胸がキュッと苦しくなったのを覚えています。
周りの人に病気のことを知られたくなかったので、もちろんお客さんも知りません。
その護摩法要のあと、母は急激にやつれて行きました。
きっと、この法要はなんとしてでも終えなければ!という強い気持ちがあり、それが終わって急に張り詰めていた物がプツンと切れたのでしょう。
その次の週には布団から出ることができなくなり、痛みが強くね夜中に病院に駆け込むことも増えるようになりました。
そんな日々が続き、ついに母は言いました。
「もう家に居たくないな」
母は最後の時間を病院で過ごすことを決めました。
家にいても、寝ているだけで仕事をしたくても思うようにできないし、お客さんがきても顔を見せたくない。
父の世話を受けるのも申し訳ない。
そんな気持ちが強くなったんだと思います。
その言葉は死期が迫っているんだな、と感じさせる言葉でとても悲しくなりました。
でも、母のこと父のことを思うと、しっかり見てもらえる病院にいる方がまだ気が楽だよねと。
父ともそんな話になり1月末には病院を探し始めました。
何かあった時のために、お寺からもねりこのうちからも車で行ける場所で探し、見つかるとすぐに入院の手続き。
探し始めてから2週間で入院が決まりました。
「お父さんもこれで気兼ねなくゴルフに行けるでしょう。」
なんて笑っていたけれど。
母は、こんな時も本当に強い母でした。
残された時間
入院し始めて、母には毎日こねりの写真や動画を送っていました。
ちょっとの成長も母に見てもらいたくて。
「今日はガラガラで遊ぶのが嬉しかったみたい」
「手遊びしたら笑ったんだよ」
些細なことでも知っておいて欲しくて。
母は、病室でこねりの写真をみると嬉しそうに笑い、その時だけは辛い気持ちを少し忘れることができました。
今でも覚えているのは、こねりがパパのかってくれたひよこのロンパースを着て寝転んでいる写真みて
「可愛いね、ふわふわで触りたいな」
と、画面を指で愛おしそうに撫でている姿。
会わせたいなと強く思いましたが、その時はコロナのせいで面会の制限がされていました。
病室には1名ずつしか入れない。
面会時間も原則1時間。
本来なら、家族が病室に泊まることもできたり、ホールにキッチンがあるのでみんなで料理をしたりと過ごせる病院でした。
ですが、そういった時間を家族で過ごすことは叶いませんでした。
妊娠中もコロナの影響でビクビクして過ごし、今この時しかないという大切な時間をも制限してくるコロナ。
本当に憎かったです。
そんな中でも、マイナスな気持ちだけで過ごすのではなく、こんな状況でも前向きな母。
入院中、緩和病棟に定期的にくる女性のお坊さんがいました。
その方と意気投合。
なんと、本を出すとのこと。
初めに聞いた時は「え???」とよくわかりませんでしたが、母に聞くと。
「このお坊さんと話していたら、盛り上がっちゃってさ」
「アイディアは差し上げるから、ぜひ出版してみんなに届けて欲しい!とお願いしたの」
なんでもこの方は、ご主人が末期の状態になった時に「自分で最後まで看取りたい」と看護師の資格をとり、その後お坊さんの資格もとったそうで。
現在は、末期の患者さんやその家族との交流をして回っているのだそうです。
そんな方と話をする中で、『後世に残したいこと』をコンセプトに末期の患者さん達が子供や孫に伝えていきたいことを集めて一冊の本にするというのは面白そう!と盛り上がったそうです。
後世に残すと言っても大それた事ではなくて身近な小さなことよくて、ちなみに母は『黒豆の作り方』を書いたと言っていました。
確かに母は、どんなに忙しいお正月でも「これくらいは作らないとね」と黒豆だけは毎年作っていました。
ねりこもその黒豆は大好きで、他の豆は食べないけれどこれだけはパクパク。
煮汁も甘くて美味しいので牛乳で割って飲んだりしていました。
こんな状況でも目的を作り、行動する母。
やっぱりすごいな。
改めて尊敬しました。
続く入院、余裕がなくなってくる自分
入院してから2ヶ月は、本の作成やらで入院生活も意味のあるものにしようと過ごす母のお見舞いを週に1、2回する日々でした。
少しでも顔を見ようと、行ける時には病院へ。
それと同時に寺の仕事もあるので、週2、3日は寺へ。
お見舞いを続けていく中で、私も父もちょっとずつ疲れてきました。
病院と寺と家。
常に車に乗って移動していたように思います。
この生活をしながらお寺の事務作業。
右も左もわからない中、手探りで進める日々。
そして何よりも嫌だという気持ちが強かったのが、こねりを1番にできない状況でした。
車の中で待たせているというストレス。
寺の仕事をしている時にぐずっても「待っててね」ばっかり。
家にいても疲れて上の空。
病院にいるときは笑顔でいなくちゃ。
離乳食も始まり、自分が思い描いていた子育てとかけ離れた状況にイライラ。
そんなこんなでイライラもピークになり、父とよく喧嘩をしていました。
この頃はいつまで続くかわからない今の状況。
終わっては欲しくない。
でも、終わって欲しい。
そんなことを思うのは間違っている。
でも、現状が辛い。
出口の見えないトンネルの中にいるようでした。
終わりの時が近づいてくる
そんなこんなで3月末。
妹はお寺の総本山で事務職として働いていましたが、こういった状況で父と私だけでは寺を回せない!
ということで、急遽辞めて帰ってくることになりました。
仕事の区切りもあるので、3月31日で退職。
4月1日にアパートも引き払って帰ってくる流れです。
帰ってくる方法として、コロナということもあり新幹線は心配なので、父が車で迎えに行くこととなりました。
とにかく事故なく帰ってきて、母に妹を会わせたいと皆思っていました。
母もその妹が帰ってくるということを支えに、ギリギリの状態で耐えている状況でした。
3月入ってから、母は痛みが強すぎていつも強い麻酔を打っていました。
その麻酔はモルヒネです。
モルヒネでも足りない時には、さらに強いショットと言われてるものを打っていました。
正直この頃から母は意識が朦朧としてどんどんと喋れなくなり、私の知っている母ではなくなっていました。
体も骨と皮だけ。
学校で見た標本の骸骨がそのままベットにいるような、それくらい痩せ細っていました。
こねりの画像を見せても、うなずいているような、でもわかっていないような。
正直、私の知る母では無くなってしまっていました。
一番辛かったことは、「帰ろう、荷物持ってきて!」とベットから降りようと何度も何度もベットの柵に足を上げようとする姿を見た時でした。
父が「帰らないって言っていたでしょ?」と言っても、「靴持ってきて」「帰らないと、お客さんがきちゃうよ」と何度も何度も訴えていました。
母は、癌になってからも周りの人に知られないように、気丈に振る舞っていました。
それは、自分の兄弟にも同様でした。
この病気を知っているのは、父と私と妹だけ。(パパとこねりも知ってましたね)
母が入院することになった時も「ちょっと用事で出ているとみんなには言ってね」と言っていたのに。
その喋り方も、子供のようでした。
人は意識が朦朧としてくると、潜在的に自分が生活していた場所に帰りたくなるのですね。
帰省本能ともいうのでしょうか。
この情景は今でも忘れられず、思い出すと胸がキュッとなります。
妹の帰る日、危篤の連絡
31日父が妹迎えに出発しました。
その日は寺のお留守番をして、夜に病院へ。
ベットに寝ると床ずれが痛くなるので、ベットに起きた状態で眠ったままの母の顔を見て帰宅しました。
次の日、父から連絡。
「危ないって病院から連絡来た。すぐ行って!」
家を飛び出し、車で病院へ。
危篤ということで、こねりを連れて病院に入ることができました。
病院に着くと、眠ったままの母。
麻酔を長い間売っていると血圧が下がっていき、脈も弱くなっていきます。
その血圧と脈が極端に弱くなり、正直今日が山場だとも言われました。
とにかく、妹が間に合うように!それを祈っていました。
夕方5時、病院に父、妹到着。
なんとか間に合いました。
泣き出す妹。
すると、今までも虚で眠ったままだった母が、目を開けて異妹の顔を見て頷きました。
よかった、間にあった。
本当によかった。
看護婦さんが「お母さん、妹さんが帰ってくるまでは、なんとしてでも死ねないのよ。」と仕切りに話していたことを教えてくれました。
その通りに頑張った母。
最後の最後まで、頑張って頑張って。
すごい母です。
4月13日
4月1日に妹が病院につき、少しだけ持ち直した母。
「妹が到着して嬉しくて、血圧が上がったんだね。」と看護師さん。
ですが、血圧は依然低いまま。
いつその時が来てもおかしくないとのことで、コロナで宿泊ができなかったのですが特例でできることに。
その日から、妹と父は交代で病院に泊まることになりました。
ねりこはこねりもいるのでそれはできませんでしたが、食事やいるものを差し入れしに通いました。
1週間、2週間と過ぎ、状況が変わらないということで、一回みんなおうちに帰ろうかと話になった矢先にその時が来ました。
13日朝、妹からの電話。
病院に到着。
母は眠りにつきました。
本当に本当に辛いのに、よくがんばりました。
辛くて痛くて、父に「いつ死ねるの?」と何度も尋ねていた母。
やっと休めるね。
もちろん、悲しい気持ち、寂しい気持ちはありました。
ですが、それ以上に2年間耐えてきた辛いことからやっと解放されたことが。。。
本当にお疲れ様でした。
私の母でいてくれて本当にありがとうございました。
後処理
その後、すぐに葬儀。
なんと、父は母に言われ、そうなってもすぐに火葬できるように葬儀屋さんと打ち合わせをいていたのです。
なので、病院でその時を迎えてから3時間後に葬儀屋さんが母を迎えに来ました。
そして次の日に葬儀。
怒涛の速さでことが進み、今をこなすことで精一杯の数日でした。
母が生前自分で決めていた戒名には、「風」「遊」という字が入っています。
父と結婚し、寺で仕事をするようになってから、ほとんど遊びに出ることもなく寺のことばかりでした。
元々、好奇心旺盛で色々なことがやりたいタイプの母。
「体が3つあれば、大学に通ったり、旅行に行ったりできるのになぁ」とよく言っていました。
きっと今までできなかったことを風に乗って遊び回っているんだと思います。
残された私たちは、正直悲しむ暇はあまりありませんでした。
住職の妻ということで、寺で改めて葬儀をすることになり、その準備に追われ。
ちょうど決算の時期にあたり。
それが終われば、お盆の時期。。。
てんやわんやです。
やっと落ち着いてきたかな?と思ったのはつい最近です。
もう季節はふたつ進んでしまいましたね。
こねりも一歳になってしまいました。
これから
私は、何かしなくちゃ!といつも思っていて落ち着きがなく、勝手に小忙しくしてしまうタイプです。
パパにいつも落ち着いたらと言われています。
そんな、忙しい慣れをしている私からしても、この2年は本当に忙しく、常に何かに追われているような感覚でした。
それも、ひと段落。
やっとあの時の思ったこと、感じたことを言葉としてまとめることができました。
吐き出せたという感じでしょうか?
この経験は私の人生観を大きく変えた出来事でした。
人はいつか死ぬ時が来る。
その期限がわかってしまった時に、少しでも後悔の数が少なくなっているように、日々を大切に過ごしていきたいです。
やりたい!と思ったことがすぐにやる!
私の座右の名にしている「思い立ったが吉日」
改めてこの考えを胸に、みなさんのためになること、家族のためになること、そして自分自身も成長に繋がること。
それらを目標に活動していきたいと思います。
あとは、こねりとの時間も大切にしたいですね。
(あとパパとの時間も、忘れないようにしないとですね)
ここまで目を通してくださり、ありがとうございました。
少しでも、みなさんの心に引っ掛かるものがあれば幸いです。
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